間 Interstice


[間 Interstice]
8.30(SAT) – 9.30(TUE), 2025. 12pm to 7pm
Closed on Mondays 월요일 휴무
서울 용산구 원효로81길 5, 2층 캡션서울
Caption Seoul, 2F, 5, Wonhyo-ro 81-gil, Yongsan-gu, Seoul

Artist:
Kay Yoon, Shu Da, Karu Miyoshi, Gilly Ghim

Caption Seoul presents «間 Interstice», an exhibition featuring Kay Yoon, Shu Da, Karu Miyoshi, and Gilly Ghim.
Curated by Caption Seoul and SEIBUN, a Chinese curator based in Tokyo, «間 Interstice» brings together four East Asian artists working across installation, sculpture, and painting. In a time when regional boundaries are dissolving and everything feels increasingly ambiguous, the exhibition seeks to explore the sense of anxiety and fractured identity experienced by contemporary artists.

Curated by Caption Seoul
Co-Curated by SEIBUN
Graphic Design: SQM
Photography: Bokyoung Han
Sound: omm..






끊임없이 변화하고 축소되는 지역과 시간의 범위 안에서, 오늘날의 젊은 세대는 새로운 존재 조건에 직면하고 있다. 시공간의 압축은 정보 과잉의 환경을 수반하며, 그 속에서 주체의 형성과 외재적 현실 사이에는 깊은 모순이 발생한다.

자기 인식은 전통적으로 타자의 표상을 해석하는 과정을 통해 구축되어 왔으나, 타자 자체가 불확정적이고 모호해지는 상황에서는 주체의 자기 인식 또한 불안정해질 수밖에 없다. 자아를 구성하기 위한 참조 체계가 불안정해진 오늘날, 우리는 ‘누군가가 되어야 한다’는 강박에 가까운 불안에 휩싸인다. 과도한 정보의 간섭 속에서 명확한 자기 인식은 점점 더 어려워지고, 우리는 끊임없이 불분명한 사람, 사건, 사물의 표상 속에서 자기 위치를 탐색하고 있음을 깨닫는다.

현대의 주체는 더 이상 특정한 지리적·문화적·사회적 위치에 고정되지 않고, 허구와 현실 사이를 떠다니며 다양한 상징 체계와 문화적 코드 사이를 부유한다. 이러한 유동성은 탈경계적 해방의 가능성을 열어주는 동시에 새로운 어려움을 초래한다.

그렇다면 자기 인식은 본질적으로 환상 위에 세워진 것일까. 허구적 상상이 모호한 타자를 처리하고 압축된 시공간을 살아가는 주체에게 유효한 인식의 장치가 될 수 있을까. 이번 전시는 동아시아의 젊은 작가들이 마주한 표상을 재구성함으로써 동시대 주체성에 대한 문제를 탐색하고, 그에 대한 하나의 응답을 시도한다.

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本展《間 Interstice》は、韓国、中国、日本という異なる文化的背景を持つ4名の若手アーティストによるグループ展である。

彼らは、国境・言語・文化・歴史の断絶や交差を通じて、明確な位置やアイデンティティを持てないまま、「あいだ」=どこにも完全に属さない場に留まりながら表現を行う。その表現は現在の東アジア的な感性、またグローバル社会における個人の存在のあり方と深く結びついている。

本展のタイトルである《間 Interstice》は、東アジアに共通する漢字「間」(jiān in Chinese, あいだ/あわい in Japanese, gan in Korean)と、その英訳である"interstice"を並列的に用いることで、本展の思想的な基盤を示している。

「間」は、空間的なギャップではなく、字形の「門」の中に「日」があるように、閉じたものの間に差し込む光=時間/経験の生成を示唆し、時間・関係・感覚が流れ込む生成の場を示し、一方で"interstice"は、フーコーの言う「非連続性」やドゥルーズとガタリの言う逃走と生成された場としての間隙を中心に、構造のなかの裂け目・批判・対立の可能性・欲望の流動性を強調する。本展が注目するのは、まさにそのようなあいまいで断続的な空間において、若者たちの主体がどのように生まれ、漂い、語られうるかという問いである。

グローバル化の文脈において、個体主体は決して孤立したものではなく、他者との関係の中でこそ確立される。「間」であれ"interstice"であれ、どちらも存在そのものが関係性の概念であることを思い起こさせる。私たちは常に何らかの「あいだ」の状態に存在し、様々な力の交差と対話の中に存在し、微細でありながら重要な間隙の中に存在している。

絶えず変化し縮小する地域・時間範囲において、現代の青年たちは新たな存在状況に直面している。時空の圧縮は情報過多の環境を伴い、そこでは主体の構築と外在する現実との間に深刻な矛盾が生じている。いかなる確定的な文化的位置にも完全に属さず、かといって様々な文化記号の影響から完全に脱却することもできない。若者たちは自分自身がこのような「間隙」状態にあることを意識している。

自己認識は従来、他者の表象を読み解くことに依存してきたが、他者自身が曖昧になったとき、主体の自己認知もまた曖昧になる。自己を構築するための参照系が不安定になり、このような状況下で「誰かになる」という焦燥感が浮上する。あまりにも多くの情報の干渉により、明確な自己認知は困難となり、私たちは常に曖昧な人・事・物の表象の中で自己の位置を探し求めていることに気づく。主体はもはや特定の地理的・文化的・社会的位置に固定されることなく、虚構と現実の間を漂い、異なる記号体系や文化的コードの中を流動している。この流動性は解放の可能性をもたらすと同時に、新たな困難をも生み出している。アイデンティティは可塑的で不安定となり、境界は曖昧で浸透性を持つようになり、確実性は絶えず疑問視され再構築される。このような状態において、「間」は単なる空間的位置ではなく、一つの存在方式となる。

この存在状況に面して、想像は必要な認知メカニズムとして現れる。それは現実からの逃避ではなく、複雑な関係ネットワークの中で推理し反応する方式である。自己認識は幻像の上に築かれているのだろうか。本質的に虚構である想像は、曖昧な他者を処理し、圧縮された時空に対処するための主体にとって必要な認知機制となりうるのだろうか。これらの問いに標準的な答えはないが、それらは現代青年のアート実践の核心的関心を構成している。私たちはこの展覧会において、東アジアの若手アーティストたちが接触する表象を再構築することを通じて、現代の主体性に関する問題を探求し、解答を試みる。


アーティストたちは様々な媒体と方法を通じて、彼らの経験となる表象と印象を再構築している。身体の境界を問い、儀式と記憶の操作を通じて過去と現在を揺さぶり、または社会構造と非人間的な視点から、他者性の生成に迫る。彼らの実践は個人的経験の表現であるだけでなく、東アジアの世代を越えて共有される文化的感性や制度的圧力、そしてグローバル化の余波の中で揺れる個人の存在を示す。

本展覧会は一つの状態を提示しようと試みる。現代の青年がいかに「間」に存在し、いかに間隙で感知し、いかに不確実の中で持続するか。これらの実践そのものが問題の一部であり、また現実の一つの表現でもある。この意味において、展覧会は現在の存在状態の記録であると同時に、この状態の延続でもある。私たちはあなたを展覧会への参加に招待し、物と物の間で、自身と存在物の間で、自分の置かれた間隙を感受してほしい。

2025.8
李静文