9月11日 (金) – 10月4日 (日)
TAV GALLERY

ANOTHER WAY
2025.9.11 [Fri] - 10.4 [Sun]
13:00-20:00(月・火・水休廊)
TAV GALLERY
〒106-0031 東京都港区西麻布2-7-5 ハウス西麻布4F
https://tavgallery.com/another-way/
本展「another way」は李静文の企画による楊一楽とJACKSON kakiの二人展である。国家という名のもとで更新され続ける権力によって引かれた線に、身体を通して応答する二人の実践を並置する。踏み越えることも、留まり続けることも、答えではない。不安定な世の中において、別の方法で存在するための一つの姿勢を提示する。
この度、TAV GALLERYでは、李静文の企画による楊一楽とJACKSON kakiの二人展「another way」を開催する。
私たちの身体は、国家という名で更新され続ける権力によって引かれた線に、気づかないうちに反応している。その線を踏み越えることは、必ずしも自由を意味しない、その線の中にいることも、必ずしも安全を意味しない。本展が試みるのは、生活に明示されてない線に向き合い、不安定な世の中に1つの姿勢を作り、別の方法で存在することである。
楊一楽は写真家として、フィールドワークに基づくリサーチとアナログの撮影手法を用いた制作を続けてきた。JACKSON kakiは3DCG、映像、パフォーマンス、インスタレーション、サウンドといった複合的な表現手法を通じて、身体とテクノロジーの関係を脱臼的な感覚のうちに描き出す。
本展では、楊一楽は、2025年に千葉の海岸に打ち上げられたクジラの死と、行政による「処理」を個人でめぐる作品を発表する。JACKSON kakiは、歩行、電車、そしてLUUPを通して、都市における移動に隠される政治性が、いかに一人の身体を通り過ぎていくのかを問う。
本展は、TAV GALLERYの屋内と屋上、二つの階層を用いて構成される。屋上には、楊一楽の作品から、埋めきれなかった鯨の骨の一部と、JACKSON kakiによる、5メートルを10分かけて歩くMRパフォーマンス作品が置かれる。4階ギャラリーには、鯨の骨の全体像を写した写真と、速度を求めて移動する乗り物の映像が並ぶ。外に晒された不完全な現物と、内に留められた完全なイメージ。引き延ばされた時間と、圧縮された時間。空間にも時間にも、それぞれもう一つの層が重ねられる。
これまで面識のなかった二人の作家だが、社会を見る視点には近しいものがある。両者はそれぞれ異なる方法で、国家という機械の不条理と、身体を介して対面してきた。本展は、その二つの実践を並置することで企画された。
ぜひご高覧ください。
ステートメント(curator’s statement)
床にマスキングテープで線を引いて枠をつくると、猫はその中に入ってしまう。誰にも強制されていないのに、線が引かれた瞬間、身体はその内側に収まってしまう。
国家という名で更新され続ける規則も、これに近い働きをする。法律だけでなく、空気を読むことや、暗黙のうちに従うべきとされる振る舞いも含めて、私たちの身体は、その線に気づかぬまま反応している。線を引くのは、いつも私たちの外側にいる誰かだ。それを受け止めるのは、私たちの身体である。
2026年10月1日、日本の入管手数料が改定される。一律6,000円だった更新手数料は最大7万5,000円へ、永住許可は1万円から20万円へ。この日は、本展の会期中である。これは、無数にある規則の一例にすぎない。無数の線枠の中に、猫がいる。
猫が線枠を踏み越えることは、必ずしも自由を意味しない。線枠の中にいることも、必ずしも安全を意味しない。ならば、その線を受け止めながら、私はどのような姿勢でいられるのか。これは、私がこれまでのキュレーションの中でずっと持ち続けてきた、主体と客体をめぐる問いの、もう一つの方向の考えでもある。自分が自分の当事者でいられているのか、それとも、いつの間にか自分自身を外側から眺める観客になってしまっているのか。
この問いに、それぞれ異なる場所から応答してきた二人の作家がいる。楊一楽とJACKSON kakiは、互いに面識がないまま、身体を通して国家という機械の不条理に対面し続けてきた。二人とも、私が長く付き合い、深く話してきた。それぞれが自分自身のルールと軸を持って世界と接している。二人の作品は、制度への直接的な批判ではない。線枠の存在を知る猫になる。ルールを受け止めながら、それでもどう在るか、という身振りそのものである。
昨年、私は楊一楽と共に、千葉の海岸に打ち上げられたクジラを見に行った。腐臭と、それを容赦なく晒す太陽が、今も記憶に残っている。彼女にとってその経験は、死体への理解であると同時に、死体を通した人間社会への理解でもあった。写真家である彼女は、本来、写すことで物事を残す人間である。しかし今回、彼女に残された選択肢は、埋める。自然に発生したものを所有したいという欲望、それは、写真を撮ることと変わらない。彼女はその欲望を、写真の代わりに、埋めるという行為に託した。行政による「処理」を経てなお地表に現れたクジラの骨を、彼女は自分の手で、もう一度埋め直す。そしてその座標を、公にする。隠すという行為が、そのまま、残すという行為になる。写真を撮るという瞬間的な行為の代わりに、彼女は果てしなく続く砂を掘る行為を選んだ。
一方、JACKSON kakiは今まで身体とテクノロジーに関する作品を作ってきて、彼を知れば知るほど、世界がすでにサイボーグの時代に入っていると感じる。VRゴーグルを通して見る目、AIに委ねる思考、乗り物によって延長される足。テクノロジーが身体を拡張するたび、そこには目に見えないルールが同時に付与される。歩行、電車、そしてLUUP。移動の手段が更新されるたびに、身体はその目の見えないルールの中に、静かに組み込まれていく。目的地に着くまでの、変わらない景色は、身体の主体性そのものが麻痺される。Meta Quest3を用いたMR作品は、まさに歩くことに対して、身体の主体性を極力拡大する実践である。
そして、本展は、TAV GALLERYの屋内と屋上、二つの階層を用いる。屋上には、埋めきれなかった鯨の骨の「先端」と、5メートルを10分かけて歩くMR作品が置かれる。真下の4階のギャラリーには、その骨の全体像を写した写真と、速度を求めて移動する乗り物の映像が並ぶ。外に晒された不完全な骨のヒントと、内に埋もれた完全なイメージ。引き延ばされた時間と、圧縮された時間。空間にも時間にも、それぞれもう一つのレイヤーが重ねられる。
会場を出ることも、会場の外に立つこともしない。これもまた、線枠の外へ逃れることではなく、引く側になることでもない、「ANOTHER WAY」である。
私たちの身体は、国家という名で更新され続ける権力によって引かれた線に、気づかないうちに反応している。その線を踏み越えることは、必ずしも自由を意味しない、その線の中にいることも、必ずしも安全を意味しない。本展が試みるのは、生活に明示されてない線に向き合い、不安定な世の中に1つの姿勢を作り、別の方法で存在することである。
楊一楽は写真家として、フィールドワークに基づくリサーチとアナログの撮影手法を用いた制作を続けてきた。JACKSON kakiは3DCG、映像、パフォーマンス、インスタレーション、サウンドといった複合的な表現手法を通じて、身体とテクノロジーの関係を脱臼的な感覚のうちに描き出す。
本展では、楊一楽は、2025年に千葉の海岸に打ち上げられたクジラの死と、行政による「処理」を個人でめぐる作品を発表する。JACKSON kakiは、歩行、電車、そしてLUUPを通して、都市における移動に隠される政治性が、いかに一人の身体を通り過ぎていくのかを問う。
本展は、TAV GALLERYの屋内と屋上、二つの階層を用いて構成される。屋上には、楊一楽の作品から、埋めきれなかった鯨の骨の一部と、JACKSON kakiによる、5メートルを10分かけて歩くMRパフォーマンス作品が置かれる。4階ギャラリーには、鯨の骨の全体像を写した写真と、速度を求めて移動する乗り物の映像が並ぶ。外に晒された不完全な現物と、内に留められた完全なイメージ。引き延ばされた時間と、圧縮された時間。空間にも時間にも、それぞれもう一つの層が重ねられる。
これまで面識のなかった二人の作家だが、社会を見る視点には近しいものがある。両者はそれぞれ異なる方法で、国家という機械の不条理と、身体を介して対面してきた。本展は、その二つの実践を並置することで企画された。
ぜひご高覧ください。
ステートメント(curator’s statement)
床にマスキングテープで線を引いて枠をつくると、猫はその中に入ってしまう。誰にも強制されていないのに、線が引かれた瞬間、身体はその内側に収まってしまう。
国家という名で更新され続ける規則も、これに近い働きをする。法律だけでなく、空気を読むことや、暗黙のうちに従うべきとされる振る舞いも含めて、私たちの身体は、その線に気づかぬまま反応している。線を引くのは、いつも私たちの外側にいる誰かだ。それを受け止めるのは、私たちの身体である。
2026年10月1日、日本の入管手数料が改定される。一律6,000円だった更新手数料は最大7万5,000円へ、永住許可は1万円から20万円へ。この日は、本展の会期中である。これは、無数にある規則の一例にすぎない。無数の線枠の中に、猫がいる。
猫が線枠を踏み越えることは、必ずしも自由を意味しない。線枠の中にいることも、必ずしも安全を意味しない。ならば、その線を受け止めながら、私はどのような姿勢でいられるのか。これは、私がこれまでのキュレーションの中でずっと持ち続けてきた、主体と客体をめぐる問いの、もう一つの方向の考えでもある。自分が自分の当事者でいられているのか、それとも、いつの間にか自分自身を外側から眺める観客になってしまっているのか。
この問いに、それぞれ異なる場所から応答してきた二人の作家がいる。楊一楽とJACKSON kakiは、互いに面識がないまま、身体を通して国家という機械の不条理に対面し続けてきた。二人とも、私が長く付き合い、深く話してきた。それぞれが自分自身のルールと軸を持って世界と接している。二人の作品は、制度への直接的な批判ではない。線枠の存在を知る猫になる。ルールを受け止めながら、それでもどう在るか、という身振りそのものである。
昨年、私は楊一楽と共に、千葉の海岸に打ち上げられたクジラを見に行った。腐臭と、それを容赦なく晒す太陽が、今も記憶に残っている。彼女にとってその経験は、死体への理解であると同時に、死体を通した人間社会への理解でもあった。写真家である彼女は、本来、写すことで物事を残す人間である。しかし今回、彼女に残された選択肢は、埋める。自然に発生したものを所有したいという欲望、それは、写真を撮ることと変わらない。彼女はその欲望を、写真の代わりに、埋めるという行為に託した。行政による「処理」を経てなお地表に現れたクジラの骨を、彼女は自分の手で、もう一度埋め直す。そしてその座標を、公にする。隠すという行為が、そのまま、残すという行為になる。写真を撮るという瞬間的な行為の代わりに、彼女は果てしなく続く砂を掘る行為を選んだ。
一方、JACKSON kakiは今まで身体とテクノロジーに関する作品を作ってきて、彼を知れば知るほど、世界がすでにサイボーグの時代に入っていると感じる。VRゴーグルを通して見る目、AIに委ねる思考、乗り物によって延長される足。テクノロジーが身体を拡張するたび、そこには目に見えないルールが同時に付与される。歩行、電車、そしてLUUP。移動の手段が更新されるたびに、身体はその目の見えないルールの中に、静かに組み込まれていく。目的地に着くまでの、変わらない景色は、身体の主体性そのものが麻痺される。Meta Quest3を用いたMR作品は、まさに歩くことに対して、身体の主体性を極力拡大する実践である。
そして、本展は、TAV GALLERYの屋内と屋上、二つの階層を用いる。屋上には、埋めきれなかった鯨の骨の「先端」と、5メートルを10分かけて歩くMR作品が置かれる。真下の4階のギャラリーには、その骨の全体像を写した写真と、速度を求めて移動する乗り物の映像が並ぶ。外に晒された不完全な骨のヒントと、内に埋もれた完全なイメージ。引き延ばされた時間と、圧縮された時間。空間にも時間にも、それぞれもう一つのレイヤーが重ねられる。
会場を出ることも、会場の外に立つこともしない。これもまた、線枠の外へ逃れることではなく、引く側になることでもない、「ANOTHER WAY」である。